一見同じようなことをしているのに、「かっこいい」と「ダサい」と正反対の感情になることがある。
それは日常の小さなことから人生の生き方まであらゆるものまで。
街中でマフラーを改造して爆音で走っている車を見ると「ダサい」と思ってしまう瞬間がある。
フェラーリが甲高い音をあげて走っていると「かっこいいな」と思ってしまう瞬間がある。
どちらもデシベルレベルでは同じくらいだとしても、どうしてこのような違いが生まれるのだろうか。
おそらく、自分を実態以上に見せようとする行為に、自分は格好悪さを感じるのではないか。
これは、改造車のエンジン能力が50しかないのにむりやり100を出そうとしているからで、
一方でフェラーリは能力が150ある中で余裕をもって100を出していることが原因ではないか。
(もちろんフェラーリもうるさいと思う人もいると思うが)
これは、例を変えてもあてはまる気がする。
同じブランド物を身に着けていても、ブランドに着せられている人はカッコ悪いということになるし、ブランド物を着こなしている人はカッコいいということになる。
ここでは、ブランド物云々という議論をしたいのではない。
自分が長年欲しかったブランド物を頑張って貯金したお金で買うことはとても幸せなことだと思う。
この行為自体に全くダサいという感情はわかない。
ところが、これが周りの見栄のために、背伸びしてブランドをまとっている場合、とてもダサいのである。
自分を実態以上に見せようとする行為、これはやはりとてもダサい。
生き方も同じような気がする。
何事においても、自分を実態以上に見せようとする行為はすべきではないと思う。
人は見栄を張りたい生き物だし、欲求はとどまるところを知らない。
だけれども、実態を伴っていなかったらみじめだし、かっこわるいし、そして自分を実態以上に見せようとする行為は自分の生活や人生を圧迫する。
誰かとの比較の中に真の幸福はない。
そういう意味でいうと「分不相応」なことがダメなのではなく、自分を実態以上に見せようとする行為が避けるべきなのかもしれない。
他人との「比較」の中には幸せは存在しない。
他人にどう見られるかという基準から離れて、自分が本当に欲しいもの、やりたいことに力を使うことが幸せへの道なのかもしれない。
最近、「生物から見た世界」を読み始めたが中断した。
あまりにも有名な本だし、もともとは別のわかりやすく解説した本を先に読んで、最後にこの本に来たが、まあ出だしからなかなか読みにくい。
この本とは関係ないが、翻訳の本はところどころ、「本当に訳あってる?」と言いたくなるようなイラポイントに出逢うことがある。
色々な本を読んでいるが、途中で中断するのは翻訳本の割合が圧倒的に多い。
中断した本は逆に原書で挑戦してみたい。(この本は原書も難解らしいし、英語ではなさそうなのでいずれ翻訳版をリベンジしたい)
コメント