前回は「会津藩駐屯地跡」や「鳥羽伏見戦の弾痕」を巡りました。
今回は「御香宮神社」「伏見奉行所跡」などを巡りました。
御香宮神社(ごこうのみや)
「鳥羽伏見戦の弾痕」から東へ向かって少し歩くと大きな神社の門が見えてきます。

境内に入ってすぐ右側に大きな石が集められている場所があり、興味がそそられます。

看板をみると「伏見城跡残石」と書いてあります。
面白い光景です。

参道を進みます。


右を見ると目当ての石碑がありました。

「明治維新伏見の戦跡之碑」です。

この解説板、面白いです。
最初、御香宮神社の表門には幕府側の木札が掲げられたそうですが、翌日には新政府軍が来て木札を外し、ここを陣地としたそうです。
幕府軍と新政府軍の間で小競り合いが起こる中、鳥羽方面(鳥羽伏見の戦い勃発の地碑、小枝橋)から砲声が聞こえ、神社東側台地で砲兵陣地を敷いていた大山弥助(後の元帥・大山巌)の指揮により、すぐ南側にある伏見奉行所の幕府軍に対して砲撃を開始したとあります。
また、これに対して、幕府軍の土方歳三が率いる新選組が砲撃の火ぶたを切って応戦したこと、仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきしんのう)が錦の御旗を翻して陣頭に立ち、新政府軍の指揮を大いに高め、戦況を盛り返したことが書いてあります。

伏見奉行所跡・旧伏見奉行所の石垣
御香宮神社の解説板にあった「伏見奉行所」は御香宮神社の目と鼻の先にありました。
現在の京都市営桃陵団地の一帯がその場所にあたります。
紹介した本によると、伏見奉行所に突入した新政府軍(薩軍)は、半生半死の者を全員切り捨てたと記載されています。また、戦時病院にいた負傷兵も全員切り捨てたと書かれてあります。


伏見奉行所は鳥羽伏見の戦いで焼け落ちたが、その後、陸軍の土地となり、第二次世界大戦後は米軍の接収を経て、日本に返還された後、市営住宅が建設されたそうです。

この解説板によると、石垣の上には白壁が続き、南北2つの櫓がそびえていたそうです。
市営住宅を南に向かって歩いていくとお城の石垣と同じくらい立派な石垣が現れます。

これが伏見奉行所の石垣です。
戦いの歴史を感じます。
平戸橋
上で紹介した「鳥羽伏見の戦い: 幕府の命運を決した四日間 (中公新書)」によると、旧幕府軍の戦死者をこの橋から大阪に運んだと記載があります。



ここから旧幕府軍の遺体が大阪城に運ばれました。

次の目的地「肥後橋」に向かいます。
このまま川沿いを歩いていきます。

振り向くと肥後橋が見えます。


細道が続きます。

橋の下でドナルドダックが寝ていました。

肥後橋
上記で紹介した本では、新選組が伏見奉行所から退却してこの肥後橋で最後の陣を張ったと記載があります。


この場所で新選組と新政府軍が奮闘していました。
宇治川方面を望みます。

反対側です。伏見方面ににあります。


右側に神社がありました。

今日の旅はここまでです。
次回は淀方面(京都競馬場)に移動します。
アクセス
御香宮神社
- 所在地:〒612-8039 京都府京都市伏見区御香宮門前町174
伏見奉行所跡・旧伏見奉行所の石垣
- 所在地:〒612-8104 京都府京都市伏見区西奉行町1−52−52
平戸橋
- 所在地:〒612-8221 京都府京都市伏見区平戸町
肥後橋
- 所在地:〒612-8233 京都府京都市伏見区西浜町
次回訪問場所
次回は「戊辰戦争淀千両松の戦いの碑」「戊辰役東軍戦死者埋骨地(愛宕茶屋堤防)」「鳥羽伏見之戦跡地供養塔(旧京阪国道)」「妙教寺」を訪れます。
Instagram連動
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