前回は鳥羽伏見の戦いの戦いが始まった場所「小枝橋」を巡りました。
京都を目指して進軍した旧幕府軍と新政府軍が対峙したのは小枝橋だけではありません。
軍勢が大きいため、その周辺も含めて両軍は対峙することになります。
今回は鳥羽伏見の戦いの火ぶたを切ることになる薩摩軍の大砲が火を噴いた城南宮を巡ります。
今回巡った史跡
- 鳥羽伏見の戦い跡札
- 城南宮
鳥羽伏見の戦い跡札
前回最後に訪れた「鳥羽離宮跡公園」から東へ200mほど進むと「城南宮」(じょうなんぐう)の鳥居が見えてきます。

参道を100mほど進むと立札が見えてきます。
これが「鳥羽伏見の戦い跡札」です。

現地の案内板には次のように記されています。
朝廷は、翌三日、伏見市外や御香宮神社に薩摩、長州、土佐等の諸藩の兵を増派、鳥羽では城南宮から鳥羽街道の小枝橋に至る西参道や鴨川の竹やぶ、東側の油小路にかけて薩摩軍が布陣した。
やがて都を目指し鳥羽街道を北上する旧幕府軍は、城南宮から南南西五百メートルの赤池に達し、入京を阻止する薩摩軍と長時間対峙する。
内容をGoogle Earthに落とし込んでみました。

前回の第1弾で訪れた「小枝橋」から「城南宮」を経て「油小路」まで、薩摩軍が布陣していたようです。
「小枝橋」から「油小路」までは直線距離で約850mほどあります。ここを薩摩軍が通せんぼするように布陣していたと思うと、ものすごい人数です。
「油小路」を3kmほど北に進んでいくと、世界遺産の東寺にたどり着きます。
東寺は新政府軍(薩摩軍)の本陣が置かれていた場所です。
新政府軍の征討大将軍であった仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみや よしあきしんのう)は、この東寺を出発し、錦の御旗を掲げて鳥羽街道を南進し戦場までやってきました。
この錦の御旗は新政府軍側の兵士を大いに勇気づけるとともに、旧幕府軍側の戦意をくじく要因にもなったと言います。
映画「るろうに剣心 京都大火編」では、鳥羽伏見の戦いの描写の際に「勝ったぞぉー!錦の御旗じゃあ!」という鬨の声と共に、錦の御旗が映し出されるシーンがあります。
城南宮から赤池まで実際に歩きましたが立札に記載のとおり、直線距離で約500mあるので距離を感じました。
このエリア一体で両軍が対峙していたことを思うといかに大軍だったかがわかります。

城南宮
「鳥羽伏見の戦い跡札」のすぐ横が城南宮の本殿です。

ここにも薩摩軍がひしめいていたのでしょう。
ここから小枝橋方面へ続く参道(上の写真を撮っている場所)に布陣した薩摩軍の大砲が火を噴き、その砲声を合図に小枝橋周辺で本格的な戦闘が展開されました。
城南宮の薩摩軍の大砲が火を噴いたのは、「鳥羽伏見の戦い」2日目の1月3日でした。
私が訪れたのは年末でしたので時期的にはほとんど同じです。
神社境内では、正月を迎える準備が行われていました。

境内に石碑がありました。

明治天皇行在所真幡寸神社
とあります。
調べてみると京都市のホームページに解説がありました。
どうやら、「鳥羽伏見の戦い」が終わった直後の3月21日に、明治天皇が大坂行幸の途中でこの地を訪れたようです。大阪行幸は親征・海軍検閲を目的としていたようです。
地真幡寸神社とは城南宮の旧名とのことです。
感想
事前に読んできた本でも、小枝橋から城南宮、赤池にわたる広範な範囲で両軍が対峙したことは記載がありましたので、そのエリアは知識としては頭に入っていました。
しかし、実際にそのエリアを自分の足で歩くことで、その広大さをダイレクトに感じることができました。
そしてこの広大なエリアに両軍の兵士がひしめき合って対峙していた様子を想像すると、規模がいかに大きかったか、その迫力に圧倒されます。
実際に歩くことで、頭にある知識が距離感を伴う立体的な感覚として感じることができました。
アクセス
- 所在地:〒612-8459 京都府京都市伏見区中島鳥羽離宮町7
次回訪問場所
次回は「今出川菊亭右大臣鳥羽殿跡」や「鳥羽伏見の戦跡」など、鳥羽伏見の戦いの戦死者を埋葬した地や激戦地を巡る予定です。
Instagram連動
この訪問の様子はInstagramにも投稿しています📷

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