天狗党を巡る旅 第4弾|水戸の処刑場― 天狗党隊士たちが処刑された地「吉田境橋行刑場」

吉田境行刑場 史跡巡り

これまで天狗党隊士や家族らが処刑された地を巡ってきました。

尊王攘夷を掲げ、京都の一橋慶喜に直談判すべく、1000kmを超える道のりを踏破した挙句に処刑された幕末の哀しき志士たちーー。

その壮絶な最後の痕跡は、水戸の各地に今も残されています。

今回は、水戸市街地にある天狗党関係の処刑場の一つ、「吉田境橋行刑場よしだけいきょういきけいじょう」を訪れました。

さらに、地理院地図と古地図・航空写真を用いて、この刑場の正確な位置に関する仮説も紹介します。


吉田境橋行刑場とは

吉田境橋行刑場
真ん中の駐車場が現在「吉田境橋行刑場」とされている場所です

この地の存在を知ったのは、水戸への旅の前に天狗党関連史跡を調べていた際、いくつかのブログで取り上げられていたことがきっかけでした。

ここは、天狗党隊士が処刑された場所です。

当時、刑場前の道路には井戸があったようで、処刑後にその井戸で首を洗い、3日間さらし首にされ、その後焼き捨てられたと伝えられています。

その後、この地を開墾しようと何度か試みたものの、白骨が無数に出土し、耕作に適さなかったため、小松を植えて松林になったといわれています。

この刑場の詳細について詳しく解説されている「いばらき解体新書」さんのブログでは、ゼンリン地図をもとに位置の特定をされています。
私もそれを参考に、今回現地を訪れました。


現地の様子

吉田境橋行刑場

場所は、水戸駅から約3.7km。長岡水戸線の幹線道路の市街地のど真ん中にありました。

何人かの方のブログを拝見すると、かつては草木がうっそうと茂っていたそうですが、現在は松林も姿を消し、駐車場になっています。

街道沿いの場所であることから、当時は道行く多くの人が梟首(さらし首)にされた天狗党隊士たちの首を目撃したことでしょう。


地理院地図と航空写真から見える位置の変遷

今は駐車場になっている吉田境橋行刑場。

かつてはどんな風景だったのでしょうか。

気になって地理院地図で調べてみました。

1984~1986年(図1)

下の図1は1984~1986年の当該地です。
この頃にはまだ松林が見えます。
写真中央の「+」で位置を固定して年代別の写真を追っていきます。

図1・1980年代の吉田境橋行刑場
図1・1984~1986年の吉田境橋行刑場

1979~1983年(図2)

続いて1979~1983年の航空写真を見てみます。(図2)

刑場の真ん中に、図1では見えなかった小屋のような建物が見えます。

先ほどの図1では、小屋が見えないため、1980年代半ばごろに取り壊され、再び松林になったと推測されます。

図2・1970年代後半の吉田境橋行刑場
図2・1979~1983年の吉田境橋行刑場

1974~1978年(図3)

続いて、1974~1978年の航空写真を見てみます。(図3)
ぼんやりしていてはっきりとはしませんが、先ほど見えた小屋らしきものはないように思えます。

吉田境橋行刑場
図3・1974~1978年の吉田境橋行刑場

1961~1969年(図4)

そして1961~1969年の航空写真です。(図4)

赤線部分が現在、吉田境橋行刑場とされている場所です。
現在刑場跡とされる場所は、きれいな畑のように見えます。

図4・1961~1969年の吉田境橋行刑場
図4・1961~1969年の吉田境橋行刑場

いばらき解体新書」さんのブログで紹介されている書籍「川俣茂七郎」(大正14年6月1日発行)によると

更に周囲を見るに北方は雑木の小林、東方は畑なり、この畑には白骨無数の小片無数に散々す。

との記載があるそうですが、確かに北側に雑木林があり、東側(と南側)には畑が広がっています。

ですが、図4を見ると、1960年代の吉田境橋行刑場とされている場所はきれいな畑のように見えます。

この地は無数の骨が出て開墾されなかった場所で雑木林になっていたということですので、現在、刑場跡地とされている場所は実は刑場の中心ではなかったのではないかという疑問が浮かびました。


刑場跡地の位置に関する仮説

以上を踏まえ、私は次の仮説に至りました。

吉田境橋行刑場の正確な位置は、現在「刑場跡」とされる土地の北側(図4の黄線部分)だった可能性が高い。

1970年代に入り、本来の刑場跡地が開発され雑木林が消え、逆に南側の隣地(現在「刑場跡」とされている場所)が1980年代にうっそうとした雑木林になった。

そのため、1980年代に雑木林になった南側が刑場跡地として認識されるようになったのではないか。

もしこの仮説が正しければ、正確な刑場跡地は写真左側の駐車場部分ということになります。(真ん中の駐車場が現在刑場跡地とされる場所です)

もっとも、当時の刑場は広範囲に及んでいた可能性もあり、現在の「刑場跡」もその一部だったと考えられます。

また、処刑された後の首が現在「刑場跡」とされる場所に遺棄され、後年骨が散見されたということもあり得ると思います。

吉田境行刑場

訪問の感想

場所についての考察を行いましたが、いずれにせよこの一帯で幕末に大規模な処刑が行われたことは間違いありません。

市街地の中にあり、周囲は建物が立ち並んでいる中で、この一帯だけがぽっかりとあいており、時代の痕跡がそこに刻まれているかのようです。

一見ただの視界が開けた場所にしか見えませんが、歴史的な背景を考えるとそこには恐ろしい歴史が潜んでいることがあります。

無念のうちに散っていった志士たちの気持ちに思いを馳せ、手を合わせてこの地を後にしました。


次回訪問場所

次回は天狗党と対立した諸生党の首領、市川三左衛門いちかわさんざえもんが処刑された「長岡原刑場跡」を訪れます。


アクセス情報

「吉田境橋行刑場」

  • 住所:茨城県水戸市元吉田町
  • 関東鉄道バス「吉沢団地前」徒歩10分

Instagram連動

この旅の様子はInstagramにも投稿しています📷


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