伊東潤氏の『義烈千秋 天狗党西へ』と吉村昭氏の『天狗争乱』を読み、彼ら天狗党士の足跡を実際に訪ねてみたくなり、一人旅に出ました。
水戸から京へ向かって西へ――尊王攘夷を掲げて進軍し、最後には福井の地で処刑された天狗党士たち。
今回は、彼らが幽閉された「鰊蔵」と、領袖である武田耕雲斎をはじめとする天狗党士たちの墓を紹介します。
天狗党とは?
天狗党は、幕末の水戸藩の尊王攘夷思想を背景にした急進的な集団です。
リーダーは武田耕雲斎と藤田小四郎。
幕府大老で彦根藩主の井伊直弼による「安政の大獄」で尊王攘夷派が弾圧されたことに憤り、兵を挙げます。
なお、井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」は有村次左衛門(薩摩藩士)を除いて全員が水戸藩士によるものでした。
情勢の悪化を悟った天狗党は、自分たちの殿様であり、尊王攘夷の本山とされた水戸藩主の一橋慶喜に直談判すべく、元治元年(1864年)に挙兵して京都を目指しました。
京都で禁裏御守衛総督を務めていました。
途中、各地の諸藩と衝突しながらも、岐阜県の濃尾平野まで到達。しかし彦根藩をはじめとする幕府の追討軍が待ち構えており、京都まで目前にして日本海側へと進路を変更せざるを得ませんでした。
その後、越前・福井で投降。その数、およそ350名にのぼります。

鰊蔵に幽閉された志士たち
当初は加賀藩預かりとして比較的丁重に迎えられていましたが、幕府預かりとなってからは一転、扱いが厳しくなります。
真冬の12月、敦賀の一角にあった「鰊蔵」という倉庫に幽閉されることになりました。
ここはもともと魚の保存庫。厳しい寒さと飢え、劣悪な環境の中での幽閉生活が始まります。
蔵には、し尿用の桶が一つあるのみで悪臭が漂い、窓はすべて板で打ち付けられて外界とは遮断。
真冬にもかかわらず、ふんどし一丁の姿で押し込められ、食事は一日二回のおにぎりと白湯だけだったといいます。
石碑の前に立つと、極寒の空腹の中、耐えていた彼らの姿が、目に浮かぶようでした。

武田耕雲斎らの墓
翌年、慶応元年2月。幕府の命令により、武田耕雲斎をはじめとする天狗党士、353人が5回に分けて処刑されました。
現在、彼らの墓は敦賀市内の静かな一角に整然と並んでいます。
私が訪れたときも、周囲はとても静かで、鳥のさえずりと風の音だけが聞こえていました。
「義」のために散っていった志士たちのことを思うと、自然と頭が下がる思いでした。


石碑と立札の案内
鰊蔵や墓地には、天狗党の投降から処刑までの経緯が書かれた案内板が設置されています。
天狗党が幕府の軍門に下ってから処刑され墓が建てられるまでの経過――
現地に立って読むことで、活字以上に強く伝わってくるものがありました。


▲ 353名を5回に分けて斬首したとあります。
現地の様子と注意点
鰊蔵も墓地も、いずれも静かな住宅街にあります。
観光地化はされていないため、落ち着いて見学できますが、冬場は雪や凍結に注意が必要です。
また、敦賀市の観光ボランティアガイドへ事前に申込みをすれば蔵の内部の見学も可能のようです。
辞世の句
武田耕雲斎の辞世の句はこちらです。
咲く梅の 花ははかなく 散るとても 香りは君が 袖にうつらん
たとえ命が散っても、志の香りはあなたの袖に残る――
我らが死してもなお、その志は受け継がれていくだろう。受け継いでいってほしい。という公雲斎の気持ちが伝わってくるようです。
事実、この処刑は幕府内の開国派からも批判を浴び、やがて幕府の求心力が弱まっていく一因となっていきます。
はるか水戸から1,000キロの道のりを踏破し、この地で斃れた彼らの想いを考え、しばらく墓前で立ち尽くしてしまいました。

参考書籍
今回の旅にあたって読んだ2冊の本をご紹介します。
どちらも天狗党の視点から幕末を描いた名著で、現地訪問前に読んでおくと、見える風景が一段と深くなります。
📚 参考書籍
▶ 義烈千秋 天狗党西へ(伊藤潤)
▶ 天狗争乱(吉村昭)
感想
水戸から始まり、福井、そして敦賀へと続く天狗党の行軍ルート。
文字で読んでいた出来事が、この地に立った瞬間、急に現実味を帯びてきました。
彼らはどんな思いで、最後を迎えたのだろうか――。
辞世の句とともに、また次の史跡へと向かいます。

次回訪問場所
天狗党が投降直前に滞在した「武田耕雲斎本陣跡(新保陣屋)」を紹介する予定です。
加賀藩との戦闘を避けるため、武田耕雲斎が交渉を重ねた歴史の舞台。ぜひご期待ください。
Instagram連動
この旅の様子はInstagramにも投稿しています📷
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アクセス情報
鰊蔵跡・武田公雲斎の墓
- 住所:福井県敦賀市松島町2丁目9
- 最寄駅:JR敦賀駅よりバス約15分
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