幕末に尊王攘夷を訴え、水戸から京都を目指し進軍した天狗党。
京都を目前にして敦賀(現・福井県敦賀市)で幕府に投降し353人が処刑されました。
処刑までの間に隊士たちが閉じ込められていたニシン蔵が現存しており、今回はその蔵のある茨城県水戸市の回天神社を訪れました。
第1弾でもニシン蔵を訪れました。こちらは福井県敦賀市に現存する蔵ですが、今回訪れるのは水戸にあるニシン蔵です。
なぜ敦賀市にあった蔵が水戸にあるのか、その疑問も含めて現地を巡ります。
■今回の記事でわかること
・ニシン蔵とはなにか。
・蔵の内部はどうなっているか。
・当時から現存するもの
・天狗党隊士たちの絶筆
・幻の大阪城奪取
・主な展示物
ニシン蔵への幽閉
ニシン蔵に収容されるまで
福井県敦賀市で幕府に投降した天狗党はまず、加賀藩預かりとなり、敦賀市内の3つの寺に収容され、武士として温情のある待遇を受けていました。
ところが、幕府追討軍の田沼意次(たぬまおきつぐ)が到着すると扱いが一変します。
幕府はニシンの肥料蔵であったニシン蔵16棟を買い取り、そこに天狗党の志士たちを押し込めました。
ニシン蔵の環境
天狗党隊士たちは、真冬にふんどし一丁で足枷をされて蔵に押し込められました。
窓と入口は板で閉ざされ、蔵の中心には排せつ用の桶が1つあるのみ。
もともと肥料を保管する蔵であったニシン蔵が強烈な悪臭が立ち込めたといいます。
また、一日に支給される食糧はおにぎり2個と白湯1杯のみ。
劣悪な環境に閉じ込められ、慶応元年2月には353名が斬首されます。
ニシン蔵が水戸にある理由
天狗党の変から100年後の昭和35年に、ニシン蔵があった福井県敦賀市の都市計画により、ニシン蔵が解体されることになりました。
そこで水戸市民の有志の方々がニシン蔵の1棟を譲り受けました。
当初は水戸常盤神社境内に移築されましたが、老朽化により取り壊しの危機にさらされました。
再び、水戸市民有志により現在の回天神社境内に移築されました。
水戸市民の有志の方々のおかげで現存するニシン蔵を拝観することができています。

ニシン蔵の様子
ニシン蔵の外観

ニシン蔵は茨城県水戸市の回天神社にあります。
この神社は天狗党の変の中で処刑、獄死した天狗党関係者の遺骸を収容し合葬したのがはじまりです。
蔵の外観はきれいに維持管理されています。
大きさは敦賀で見たニシン蔵と同じであり、当時はこのサイズの蔵16棟に天狗党隊士たちが押し込められていました。
16棟並んだニシン蔵の様子を想像すると隊士たちの無念の声が聞こえてきそうでその場で立ち尽くしました。
ニシン蔵の内部

ニシン蔵の間柱(まばしら・柱と柱の間に立てる、壁の下地となる細い角材)の約1/3は敦賀にあった当時の木材が用いられています。
天井の梁(はり)の部分は当時の木材を用いて補強され、中央の柱と土台石と軒瓦は当時のものが残っています。
ニシン蔵の天井

ニシン蔵の天井です。
幽閉された天狗党隊士たちは、寒さに震えながらどんな気持ちでこの天井を見上げていたのでしょうか。
この梁は当時から現存するものですので、天狗党隊士たちが刑場に連行されるまでの間の一部始終を見てきたことになります。
中央の柱と土台石

中央の柱と土台石は当時そのままです。
天狗党隊士たちの絶筆
蔵の中にひときわ強烈に感情を揺さぶられたものがありました。
天狗党隊士が書き残した絶筆が扉に残っています。

拡大してみます。

絶筆は複数あります。


絶筆の解釈
国学院大学大学院のページでは、「血書による絶筆」と説明がありますので、これらは天狗党たちが血で書いたということのようです。
極寒に震えながら、過酷な環境の中で自らの血で「叶」と書いた隊士たち。彼らはどんな思いをこめてこの絶筆を書いたのでしょうか。
この「叶う」の絶筆を見た時、私は天狗党の首領である武田公雲斎の辞世の句を思い出しました。
咲く梅の 花ははかなく 散るとても 香りは君が 袖にうつらん
”自分たちはこの敦賀の地で散っていくが、尊王攘夷の意志は誰かに引き継がれ、その意志はいずれ実現していくだろう。”
まさに、「叶う」の意味はこの句が体現していると思います。

自害シーンの模型
人形展示
館内には様々な展示があります。
入口には高橋親子の自害のシーンを再現した人形があります。

高橋親子とは
高橋親子とは高橋多一郎(たいちろう)と高橋庄左衛門(しょうざえもん)のことです。
高橋多一郎は水戸藩士で、桜田門外の変の首謀者の一人です。
戊午の密勅(ぼごのみっちょく)により孝明天皇から水戸藩に対して幕政改革を指示する勅書が下され、高橋は密勅の写しを江戸から水戸に届けます。
高橋は、安政の大獄で水戸藩への弾圧を強める大老・井伊直弼を暗殺する計画を、水戸藩士や薩摩藩士らとともに計画します。
東の「桜田門外の変」、西の「大阪城奪取」について
説明文では「東では桜田門外の変、同時に西では薩摩藩と水戸藩が協力して大阪城を奪取する予定だった」とあります。
これについては色々な説があると思いますが、史実として現時点で最も有力なのは、次の見方のようです。
東では水戸脱藩浪士らが井伊直弼を討った桜田門外の変が起き、幕末政治は大きく揺れ動いていました。
ただし、これは水戸浪士と有志の薩摩藩士(有村次左衛門)による“個人有志の行動”で、藩の正式な計画ではありません。
同じ頃、西国では薩摩藩の一部急進派(有馬新七ら)が大阪城奪取・尊攘政権樹立 といった構想を抱いていました。
しかしこれはあくまで薩摩急進派内部の独自計画であり、水戸藩や桜田門外の変と連動した“東西同時決起”ではないというのが現在では有力のようです。
高橋多一郎は、戊午の密勅を受けた水戸藩としてその処理をめぐり上京した後、幕府の追及を受けて息子の庄左衛門らとともに大坂へ逃れ、潜伏生活を送ります。
潜伏中に桜田門外の変の成功を知るものの、それが自らの行動と直接結びつくことはありませんでした。
やがて潜伏先が幕吏に察知され、高橋は息子とともに自刃して果てました。

高橋多一郎の辞世の句
鳥が鳴く あづま健夫の まごころは 鹿島の里の あなたとぞ知れ
「あづま健夫」は東国の武士、「鹿島の里」は茨城県という意味ですので、意訳としては、
”東国出身の私が、ここ西国(大阪)で散ることになるが、この私の本心と意志は、水戸の同士たちや家族が知っていてさえくれればそれでいい”
と解釈しました。
東西同時に尊王攘夷を決行しようと誓い、桜田門外の変は成功したが、自分の大阪での決行は失敗してしまった。悔しさと共に、残った仲間に尊王攘夷を成し遂げてほしいという気持ちが表れているように思います。
高橋庄左衛門の辞世の句
高橋多一郎の息子・庄左衛門の辞世の句も残っています。
今さらに 何をか言わめ 言わずとも 尽くす心は 神や知るらむ
意訳としては
”今さらもう、何を言うことがあるだろうか。私の意志は、きっと神様が知っておられるだろうから。”
尊王攘夷実行に向けて全力を注ぎ、その志士活動の中で斃れることに対して言い残すことはない。自分の天命はまっとうした。という気持ちが伝わってきます。
自分はここで斃れるが、志士とはその命をかけて志士活動の礎となることではないか。
そんな意志を感じました。
その他の展示物
天狗党行軍経路図

水戸から敦賀までの8か月約1,000キロに及ぶ天狗党の道のりです。
以前訪れた敦賀の武田公雲斎の墓には「水戸天狗党ウォーク」の完歩記念碑が建っていました。
天狗党が歩いた道のりをたどるという壮大な企画ですが、私も知っていれば参加したかったです。(1月以上休みを取ることが最大の難関ですが)
信州和田嶺合戦図

信州・諏訪湖近くの和田峠で高島藩・松本藩と交戦した「和田峠の戦い」の様子です。
天狗党が勝利しました。
ニシン蔵の図

天狗党隊士たちが押し込められた敦賀のニシン蔵の様子です。
愛宕山集会の図

桜田門外の変の当日は、港区にある愛宕神社で待ち合わせし、桜田門外へ向かいました。
桜田門外の図

有名な「桜田門外の変」の様子です。
慰霊の木刀

群馬における「下仁田戦争」の際に、天狗党の少年兵である野村丑之助(うしのすけ)が負傷しました。
丑之助は、軍旅の足手まといになるからと、自ら斬首を申し出、斬首されました。
その際、丑之助の墓地の裏に杉が植えられましたが、平成に入って焼却されることになり、慰霊を込めてその杉の木から作られた木刀です。
書籍

天狗党関係の書籍が陳列されてあります。
感想
天狗党隊士たちが実際に閉じ込められていたニシン蔵の内部に入り、しばらく立ち尽くしてしまいました。
彼らが寒さと空腹で震える中、見上げていたであろう天井がそこにあります。
そして「叶う」の絶筆。
過酷な状況の中で「叶う」という文字が出てくるでしょうか。彼らの国のことを思う意志と覚悟が伝わってきました。
天狗党の行軍に関する様々な資料が展示されており、現存するニシン蔵で見ると現実感が感じながら1点1点足を止めて拝見しました。
ぜひ一度は足を運んでいただきたい史跡です。
次回訪問場所
回天神社にはニシン蔵(回天館)のほかに、天狗党の首領格・藤田小四郎(こしろう)をはじめとする水戸殉難志士の墓があります。次回はこちらを取り上げます。
アクセス情報
回天館
- 住所:茨城県水戸市松本町13−13
- 最寄駅:バス「保和苑入口」下車、徒歩約5分
旅の様子はInstagramにも投稿しています📷

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