茨城県水戸市。
閑静な住宅街の一角に、ひっそりと石碑と説明板が立っています。
ここはかつて「赤沼牢屋敷」と呼ばれた場所。
幕末、水戸藩の尊王攘夷派「天狗党」の志士たちの家族が収容され、非業の最期を遂げた地です。
牢屋敷と聞くと、現代の牢屋のようなものを思い浮かべがちですが、当時の牢屋敷は事実上、ここに入れば死は免れられない絶望の場所でした。
加えて赤沼牢屋敷では、天狗党隊士の家族など関係者らの大量の処刑が行われました。

天狗党の家族たちの処刑
天狗党は水戸藩内の尊王攘夷派の一派で、幕末動乱の中、京都に向かい挙兵しました。指導者は藤田小四郎。
彼らは「尊王攘夷」を掲げて京都の徳川慶喜に直訴しようとしましたが、行軍の途中で幕府軍に包囲され、降伏。
シリーズ第1弾で取り上げたように降伏した天狗党の隊士たち353人は現在の福井県敦賀市で斬首されました。
実は、彼らの地元の水戸では、隊士たちの家族が連座して牢屋敷に入れられ、そして処刑されました。
天狗党首領の武田公雲斎の妻は、恐ろしいことに、敦賀で斬首された公雲斎の塩漬けの首を膝に抱え込まされたまま斬首されたといいます。
水戸藩では尊王攘夷派の「天狗党」と佐幕派の「諸生党」が激しく争っており、この天狗党家族への処刑は諸生党によるものでした。
幕末、戊辰戦争の頃には、逆に佐幕派が追われる側となり、今度は生き残った武田公雲斎の息子など天狗党の生き残りたちが、今度は逆に諸生党の家族を皆殺しにしていきます。
まさに幕末の水戸藩は恨みと報復の連鎖。
もともと天狗党と諸生党は弘道館という藩校で学んだ同士たちでした。
その同士内の争いにより、徳川御三家の一つである水戸藩の有能な人材がほとんど失われ、明治維新では水戸藩は影をひそめることになります。

現地を訪ねて
水戸駅前でレンタサイクル「水戸チャリ」を借りて東台方面へ。
住宅地の一角に「赤沼牢屋敷跡」と刻まれた石碑が現れました。
周囲は静かで、左右の住宅と駐車場に挟まれています。
しかし、その一角に佇む傾いた石碑だけが、ここがただの住宅地ではないことを告げています。
この場所がかつて、多くの天狗党隊士の家族や関係者が連座して斬首された地であることを無言で伝えています。
現代の静けさとの落差に、胸に迫るものがありました。

志士たちの無念
武田公雲斎の妻の辞世の句が残っています。
かねて身は なしと思へど 山吹の
花も匂ほはで 散るぞ悲しき
”自分の命はないものとして覚悟していたけれども、いざ散るとなると、山吹の花が香りも残さず散ってしまうように悲しいことだ。”
本来なら香りを放ちながら美しく咲き誇るはずの山吹に自分を例えた辞世の句からは、遠く敦賀の地で処刑された夫の公雲斎の首を抱えながら、我が子と共に斬首される自分の境遇への悲しさがにじみ出ています。
赤沼牢屋式跡にて、この句を心の中で詠みました。
まさに今、その歴史の現場に立ち会っているような気持ちになり、思わず手を合わせました。

牢屋敷跡に立って感じたこと
石碑は傾いています。
それが余計にこの場所で起こったことの悲惨さに拍車をかけるようです。
幕末には、尊王攘夷派が京都を牛耳るがごとく勢力を得た時期もありましたが、八月十八日の政変や安政の大獄など、急速に弾圧が始まります。
尊王攘夷派への弾圧は全国各地で起こっており、歴史の教科書には載っていない出来事が多くあります。
しかし、ここを訪れることで「教科書にはでてこない各地の尊王攘夷派への弾圧」を実感できます。
石碑や説明板は小さな存在ですが、それを前にした時、幕末の混乱ぶりとその中で各々が各々の正義を掲げて戦った激動の時代であったことが感じられます。
観光スポットとして華やかさはありませんが、歴史を肌で感じたい人にとっては必ず訪れる価値のある場所だと思います。

📍 赤沼牢屋敷跡
- 所在地:〒310-0818 茨城県水戸市東台2丁目8
- アクセス:JR水戸駅から茨城交通バスで約14分、「浜田西」下車徒歩4分
- 遺構は現存せず、石碑と説明板のみ
まとめ
「天狗党を巡る旅 第2弾」として訪れた赤沼牢屋敷跡。
現地には石碑しか残っていませんが、その背後に広がる歴史は重く、深いものでした。
幕末、水戸藩の志士たちが理想のために立ち上がり、その家族たちがこの地で散った。
その無念と志を思うと、静かな住宅街の空気さえ特別なものに感じられました。
赤沼牢屋敷跡は、歴史の光と影を同時に体感できる場所。
華やかさはなくとも、心に深く響く史跡でした。
天狗党を巡る旅は、まだ始まったばかり。
次なる地で、さらに彼らの足跡をたどっていきたいと思います。
次回訪問場所
次回は、天狗党隊士たちが処刑された水戸の処刑地「渋井の土壇場」を訪れます。
Instagram連動
この近江屋訪問の様子はInstagramにも投稿しています📷


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