鳥羽伏見の戦いとは何だったのか
―― 戊辰戦争のはじまりとなった戦い
鳥羽伏見の戦いは、1868年(慶応4年)正月、京都南部の鳥羽・伏見一帯で起きた戦いです。
旧幕府軍と新政府軍が正面から武力衝突した、日本の近代史を大きく動かした最初の戦いでもあります。
この戦いをきっかけに、日本は本格的な内戦である戊辰戦争へと突入していきます。

戦いの前夜 ―― 大政奉還後も続いていた緊張
1867年、将軍であった
徳川慶喜 は大政奉還を行い、形式上は政権を朝廷へ返上しました。
しかし、実際には政治の主導権をめぐって、
- 薩摩藩・長州藩を中心とする新政府側
- 旧幕府とその支持勢力
の対立は解消されていませんでした。
とくに京都周辺では、武力衝突が起きてもおかしくないほど、両陣営の緊張が高まっていたのです。
旧幕府側は、情勢を打開するため、大坂に集結していた兵を率いて京都へ向かいます。
これが、鳥羽伏見の戦いへとつながっていきます。

鳥羽・伏見での衝突 ―― ついに戦端が開かれる
1868年1月3日、旧幕府軍が京都へ進軍する途中、
鳥羽街道・伏見街道周辺で新政府軍と遭遇します。
場所は現在の
京都市南部にあたる、鳥羽・伏見一帯です。
当初、旧幕府軍は「上洛(京都へ入る)する」ことが目的であり、
必ずしも大規模な戦闘を想定していたわけではありませんでした。
しかし、街道上で両軍が対峙し、小規模な衝突が発生したことをきっかけに、戦闘は一気に拡大していきます。
こうして、日本近代史の大きな転換点となる戦いが始まりました。

兵力と装備の差 ―― 数では勝ち、質で劣った幕府軍
この戦いでは、兵力だけを見ると旧幕府軍が優勢でした。
旧幕府軍はおよそ1万5千人規模。
一方、新政府軍はおよそ5千人ほどとされています。
しかし決定的だったのは、装備と訓練の差でした。
新政府軍、特に薩摩藩・長州藩の部隊は、
- 洋式銃
- 近代的な砲兵
- 西洋式の戦術
を導入しており、近代戦に適応しつつありました。
一方、旧幕府軍は旧来の装備や戦い方が中心で、
実戦においてその差が次第に表れていきます。
(旧幕府軍も一部がシャスポ―銃(元込め銃)を所有していたという説もあります)

錦の御旗 ―― 戦況を決定づけた「象徴」
戦況を大きく変えたのが、「錦の御旗」の出現でした。
新政府軍は、天皇の軍であることを示す錦の御旗を掲げ、
自分たちが官軍(朝廷側の正規軍)であることを明確に示します。
これにより、旧幕府軍は一転して、
「天皇に弓を引く朝敵」
という立場に置かれてしまいました。
この心理的な影響は非常に大きく、
- 出陣をためらう部隊
- 戦意を喪失する兵
- 新政府側へ転じる藩
が相次いでいきます。
鳥羽伏見の戦いは、単なる戦力差ではなく、
「正統性」をめぐる戦いでもあったと言えます。
戦いの結末 ―― 幕府軍は大阪へ撤退する
戦闘は数日間続きましたが、旧幕府軍は次第に劣勢となり、京都周辺からの撤退を余儀なくされます。
そして最終的に旧幕府軍は、
大阪城
方面へと退却します。
この時点で、旧幕府側は事実上、京都の制圧に失敗し、
鳥羽伏見の戦いは新政府軍の勝利に終わりました。

この戦いの意味 ―― 戊辰戦争の出発点
鳥羽伏見の戦いは、その後全国に広がっていく内戦、
戊辰戦争
の出発点となった戦いです。
この戦いで新政府軍が「官軍」としての立場を確立したことにより、
戦いは
京都 → 東日本 → 東北 → 北海道
へと拡大していきます。
そして最終的に、江戸幕府体制は完全に終焉を迎えることになります。


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