今回は天狗党の首領、武田耕雲斎の墓を巡ります。
武田耕雲斎とは
武田耕雲斎は水戸藩の参政として、水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の尊王攘夷運動と藩政を支えました。
藤田小四郎が天狗党を率いて挙兵した際には、時期尚早であるとしてこれを諫めましたが、逆に藤田小四郎から天狗党の首領になってほしいと熱烈に諭され、ついに天狗党の首領となります。
武田耕雲斎自身は過激な尊王攘夷には消極的だったとされます。
下の写真は福井県敦賀市にある「武田耕雲斎の墓」で撮影した武田耕雲斎の像です。

武田耕雲斎の墓
武田耕雲斎の墓は水戸市内の妙雲寺というお寺の境内にあります。
境内を進んでいくと奥の方に石柱が建っていました。

この石碑の右側に進むと、武田耕雲斎と家族の墓が並んでしました。

真ん中の卒塔婆が建っているのが武田耕雲斎の墓です。
家族の墓
一番右の小さな墓石には「武田桃丸」の文字があります。武田耕雲斎の六男であり、9歳で処刑されました。
以前、第2弾で訪れましたが、武田耕雲斎が福井県敦賀で斬首された後、連座して耕雲斎の家族全員も処刑されました。
妻は耕雲斎の首を抱きかかえさせられたまま、斬首されたと伝わります。
説明板
近くには説明板もありました。

説明板にも、耕雲斎が当初は藤田小四郎の天狗党挙兵に対して、自重を勧めていたことが記載されています。
尊王攘夷派に対する幕府の弾圧が強まる中で、天狗党への同情に耐えかねて共に戦うことを決意したことも書かれています。
耕雲斎はおそらく、天狗党の首領を引き受けた時には己とその家族の死を覚悟していたのではないでしょうか。
井伊直弼台霊塚
境内に立派な石碑が建っていました。
何かと思って近づくと「井伊直弼台霊塚」とあります。

天狗党と武田耕雲斎は、幕府の尊王攘夷派への弾圧から挙兵を決心しました。
その幕府の尊王攘夷派への弾圧を行っていた大老・井伊直弼の台霊塚が同じ境内にあるとは、なんとも因縁を感じます。
井伊直弼が水戸藩士に暗殺された「桜田門外の変」において、井伊の首が水戸に持ち帰られたとされる説があります。
大老・井伊直弼の御台霊を慰めるために建てられたようです。
この経緯については「小さな資料室」様の記事に詳しく記載があります。
中でも、
「この大老の御首級を彦根の井伊家に御返し申し上げたいというのが長年に亘る私の念願であ」るが、「昭和三十七年以来再三に亘る交渉にも拘らず、井伊家の御返事は、水戸の浪士が苦労して持ち返ったのでありますから、水戸の地に留めおく様にとの事」
との記載がなんとも井伊家の念を感じざるを得ません。
感想
境内は人影も少なく、落ち着いて回ることができました。
武田公雲斎だけでなく、処刑された家族の墓石も並んである光景は、この時代に吹き荒れた嵐のすさまじさを感じます。
武田耕雲斎たちはさぞ無念だったでしょう。
しかし、その死がやがて維新への礎となりなりました。
まさに、公雲斎の辞世の句である
咲く梅の 花ははかなく 散るとも 香りは君が 袖にうつらん
です。
その志は、死してなお、礎として後続の志士に引き継がれていきます。
アクセス
- 所在地:〒310-0912 茨城県水戸市見川2丁目103−1
- アクセス:JR水戸駅から茨城交通バスで約14分、「見川稲荷神社前」下車徒歩5分
次回訪問場所
次回は、水戸を離れ福井県敦賀市にある「武田耕雲斎本陣跡(新保陣屋)」を訪れます。
天狗党が本陣を置き、加賀藩(幕府)と会談を行い、降伏を決めた地です。
Instagram連動
この訪問の様子はInstagramにも投稿しています📷


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